「丕緒の鳥」十二国記短編集

 

すみません。「白銀の墟 玄の月」が発売されて1年過ぎて、実はごく最近まだ読んでいない十二国記のシリーズがあることを知りました。(遅い……)

この「丕緒の鳥」は2013年に発売された短編集です。

新潮文庫の十二国記シリーズでは、Episode5に列をなしていますが、発売されたのは比較的新しいもの。でも読む順番的には、5番目でも問題ないです。

というわけで、初読の感想になります。

 

※ネタバレを含みます。

 

はじめに:短編集に表れる作者の本領発揮

小野不由美さんの十二国記シリーズの短編集は「華胥の幽夢 (かしょのゆめ)」もあります。

こちらは、王周辺の人々を描く物語が中心です。

 

今回の「丕緒の鳥」では、主要な登場人物はほぼ出ません。(かろうじて、陽子が少しだけ登場するくらい)

この作品の主人公たちは、名もない民が中心です。

 

もちろん主要な物語の面白さはいうまでもないんだけれど、こういう人たち(主軸の物語では主人公になり得ない人たち)の短編には、小説家としての力量が問われるのではないかと思います。

 

わたしはこの手の短編で秀逸な作家を知っています。

個人的趣味ですが、わたしはモンゴメリ(赤毛のアンの作者)の大ファン。

このモンゴメリが、赤毛のアンの舞台となっているアヴォンリー(村岡花子さんの役に沿ってアヴォンリーと呼んでおきます)の人々を描いた短編集を2作出しているのですね。

 

 

(タイトルとは違い、登場人物はアンと関わりのない人たちばかりです)

 

わたしはこの2作が密かに好き。

物語の主役を張るような人ではないけれども、しかしそういった人々にも物語が存在することーー派手さやドラマチックさはそれほどないけれど、しかし表現豊かに描き出すことにモンゴメリはとても長けていたのです。

で(戻って)、今回の短編集も、それと同じ匂いがしました。

小野不由美先生の手腕が如何なく発揮されています。

 

王やその周辺の人たちのドラマもそれはそれで面白いのだけれど、王は王だけで成り立つのであらず。民がいてこそ成り立ち、その民にもドラマがあること、その集合体が国を作ることを物語ってくれているように感じました。

 

あと、十二国記って設定がファンタジーなんだけど、そのファンタンジーの精緻さが改めて際立ったなあと思います。

特に、今回は仙籍の人が多いので、仙籍ならではの感慨みたいなのも触れられたのは参考になりました。

 

丕緒の鳥

慶国のお話。

陽子が慶にやってきたとき、その扱いの酷さにびっくりしましたが

なんか、慶って女王に恵まれない国だったんだなあというのが、改めてひしひしと伝わってくる。

 

先代の予王は、その人本人が描かれることはほとんどなく、周辺から洩れ聞こえてくる感じですが

 

最後の「風信」も予王の影響を受けたお話だけれど

予王のしたことは、確かに明らかにもう議論の余地なくおかしい。

それで犠牲になった、謂れもない人々の命の重さを考えると同情の余地もない。

 

でも、一方でこの人(予王)はどんな人生を歩んだのかなとも考えさせられます。

十二国記は天の摂理が根底にあって動いている世界であることを、改めて実感したんだけれど

つまり、はじめは天の摂理で選ばれたはずの王が

道を踏み外すこともあり

それは言葉を変えれば踏み外さない方法もあるということで

 

この物語の丕緒は、そんなの知らないし関係のないことなんだけれど、でもこうやって細部にも表現されることはある。

そこにどんな思いを託すのか、どう表現するのか。

 

陽子も壮絶な体験をして(よく生き延びたなあと思います。蓬莱から来たばかりの陽子だったら、今の玉座にいる彼女はいません)、いまがあって。だから良い王になるとは必ずしも限らないけれど。

最後に丕緒と会話する景王(陽子)は、とても良いなあと思います。

 

落照の獄

柳国のお話。

柳国って、陽子や泰麒のお話には絡んでこないのでほとんど知らないんだけど、確か雲行きがよくない噂を誰かがしていたような(気がする)。

 

これは、十二国記という世界を舞台に仕掛けられた死刑制度に対する問いかけです。

 

理想論とか机上の空論とか、そういうのはダメなんだろう。

どっちの言い分もわかる。わたしが被害者なら、死刑がなくていいとは絶対に言える自信はない。

 

この物語の結末に、読者はどんな気持ちが湧くのかな。

そこまで含めて、あえて一石を投じている物語のような気がします。

 

ちなみに、この物語を読んで、わたしは「ケーキの切れない非行少年たち (新潮新書)」を思い出しました。

 

(まだ読んでいなかったので、今度読もう……)

個人的見解ですが、狩獺は胸の内を絶対に明かさないだろうと思った。

 

それは、言葉にして理解や同情を得たくない思いもあるかもしれないし、自身のなかで言葉にできる段階にないことも含まれるような気もします。

相手にわかるように自分のことを話すのには、自己理解と相手への(そして自分自身にも)信頼が必要です。

 

彼はその機会を徹底的に持たなかった(持てなかった)人ではないかと思いました。それは罰だけでは培われないからです。

 

だからといって、彼のした罪が許されるわけではありませんが。

読後のもやっとした感じも含めての物語だなあと思いました。

 

青条の蘭

雁のお話。

このお話、物語のなかには国名が一度も出てこなくて公式サイトを見て知りました。

いまの延王(尚隆)が即位したての頃のお話なのですね。

 

役人にもいろいろな仕事があること、興慶を通して黄朱の人の立ち位置や事情も窺い知れたなど、物語を通して十二国記の世界観がちょこっと知れたのも良かった。

直接は関係ないのですが、王が路木に願うと国中の里木に実がなることや、黄朱の立ち位置などは、「白銀の墟 玄の月」にも参考になる設定ですね。

 

包荒の木だけでなく全体を見て危機感を持つ視点は、標仲が呼んだ目先の自分の利益を優先させる役人の視点と対照的でしたね。

まさに「木を見て森を見ず」

 

最後の「よくわかんないけどみんなでこれを新しい王様へ届けよう!」的なリレーは、標仲の孤独な戦い(「走れメロス」みたいだ)、使命感が実を結んだようで読んでいて胸が熱くなりました。

 

風信

ずっと仙籍の渋い男性の話かと思いきや、最後は女の子が主人公のお話でした。

こちらも予王時代の慶のお話。

 

はじめの、何気ないけど陽だまりのような日常が一瞬で奪い去られる描写。

大事な家族が友人が隣人が、一方的な非合理な暴力で失われる現実。

小野先生はつくづく容赦がありません。

 

そのあとの槐園での、浮世離れした不思議な人たちとの生活。

こころに深い傷を負った蓮花には、これくらいのテンポで関わってくれるほうがちょうど良かったのだろうなと思います。良いところに拾われた。

 

そして、ここでの「暦をつくる」という仕事。

これまた包荒とは違う視点で広く物事を見ることなのだと思う。

まあ、作っている人たちは皆変人ばかりですけど(笑)

 

この感想を書くにあたって、逆ベクトルでレイチェル・カーソンの「沈黙の春」を思い出しました。

 

 

まだ環境問題がそれほど叫ばれていなかった頃に、自然からの「声」に耳を傾け警鐘を与えた本です。(あ、これは「青条の蘭」のほうで取り上げても良かったのかも)

 

 

蓮花が熊蜂に感動したり、一方で兵士が攻めてきたときには憤ったり、いろいろな感情が湧いているのに対して、ここの人たちは基本的に日々黙々と気の遠くなるような作業を繰り返しています。

それでも何も感じていないわけではなくて、蓮花が怒ったあとに蓮花に及び腰になったのは、やっぱり蓮花に反応して気を遣ったりいろいろな気持ちが動いているからだろうなと思います。

 

けれど、暦は必要です。こんな時代だから必要なんです。それだけは疑いがない。誰かが暦を作らないといけない。だからそれしかできない私たちがやるんです。(P340)

 

とても重みのある言葉だと思います。

 

 

結び:細部に宿る

王が国を治めるのは、究極のトップダウンです。

一方、この物語で描かれているのは、それと逆の流れーー下から上のボトムアップです。

※トップダウンとボトムアップの用語の使い方は、ビジネス用語とはニュアンスが違うかもしれませんが、ここではわかりやすくこの用語を使っています。

 

大きな流れのなかでは、どうしようもないこともあります。

特に暴力的な力の行使のなかでは、いつも弱い存在が真っ先に犠牲になります。

どうしても民レベルではそれに翻弄されるしかないことも承知の上で。

 

それでも、世の摂理を動かすのは、トップダウンだけではないのだと信じたいなあと思いました。

例えば「青条の蘭」で、標仲が必死の思いで希望を繋ごうとした努力が、周囲の人々も動かしてよくわからないけれどリレーのように繋がったように。

 

国は王ではなくて、民の一人ひとりが集まって国になる。

それぞれが自分にできることをやりながら、明日が良い日になるように生きていく。

 

間違った判断を犯してしまうこともきっとあると思います。

それは、王でも民でも同じです。

 

自分や他人の間違いに、どこまで寛容になれるか。

 

十二国記の世界では、全体が良い方向に動いているときには天がそう動いているという感触を与えます。

それは燕の数だったり、農作物の出来だったり、人々の思いだったり。

わたしたちの日常は、そういう天の声みたいなのはとてもわかりにくくて小さな声です。

残念ながら燕の数では分かりません。

 

以前読んだ、「新説 孫子」で、兵法には論理だけでなく「道(タオ)」も重視されていたと知りとても驚きました。

全体の調和には、きっとそういうものも含まれているんだろうなあと思う。

 

 

そして、細部には、末端の人々の日々の「生きる」が含まれているのではないだろうか、とも思うのです。

 

ここまでお読みくださいましてありがとうございました。

 

関連情報

▽新潮社の「十二国記」公式サイト

小野不由美「十二国記」新潮社公式サイト

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