劇場版「鬼滅の刃」無限列車編 箇条書き感想&本編全体の考察〜有限性について〜

アニメ
image:https://kimetsu.com/anime/
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わたしも「鬼滅の刃」を観に行ってしまいました。

IMAXで観に行っちゃいました。「天気の子」以来です。

 

*アニメは全部視聴済み。

*原作漫画も最新刊22巻まで読了済み。

*テレビでやっていたスペシャルも見たよー

 

▽予告編

 

※劇場版のネタバレとちょろっと原作の先の展開も含みます。読まれる方はご注意ください。

 

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 ざっと箇条書き感想

・映画の持ち味とアニメの持ち味が原作の持ち味を底上げしている!
・炎ってすごく画面に映えるよね。
・煉獄さんやっぱり変な人だけどめちゃかっこいい兄貴だ。
・小さい禰豆子はやっぱり可愛い。
・先に原作を読んでしまったので、先の展開がわからないドキドキハラハラ感が
味わえなかったのはちょっと残念……
・でも、にも関わらずめちゃくちゃ楽しめたのはやっぱりすごい。
・炭治郎の家族はみんなすごく良い子だなあ。
・「俺の家族を侮辱するなー!」は、絶大の信頼感がないと言えない言葉。
・炭治郎のあの闇のなさは何なんだろうと思います。少年漫画の主人公らしくて良いけど。嫌味がないしね。
・でも、炭治郎が折れないのは、禰豆子が生きていたからなんだろうなあ。
・「禰豆子を人間に戻す」は、絶望のなかに生まれた一筋の希望だったから。と、今思った。
・炭治郎は基本的に人間にも鬼にも優しいけど、それは絶対的な愛じゃなくて、かけがえのない大事な人がいるから、その上で成り立っているんだと思う。
・竈門家が代々受け継いできたものの一つ。基本的信頼が盤石。それが炭治郎の強さ。
・しかし、夢でも何度も自分の首を斬るのって尋常じゃないよね。(これはPG12)
・基本的に自己犠牲の子だなあと思います。
・煉獄親子はみんな毛色が猫みたいです。かわいい。お母さんめちゃ美人。
・闇は善逸のほうが強いよね。炭治郎と違って、基本的信頼は後からだから。でもそこも好きだー
・善逸ひそかに禰豆子ちゃんのピンチを救う王子様(しかし本人が意識ないので覚えてないのが彼らしい)
・伊之助は省略(待て)
・魘夢(下弦壱)のキモさは劇場版で際立っていると思う。よかったねー大出世。
・煉獄さんは、格好いい。変だけど格好いい。変と兄貴キャラが共存するって不思議だ。
・状況を見極めて、後方支援に回るのも兄貴格好いいです。
・猗窩座(アカザ)出たー! まさかの石田さん(声優)。豪華ですね。
・終盤の柱vs上弦はやっぱり圧巻です。ハンカチ握りしめたよ。
・猗窩座はなんか原作を読んでからだと、背景を知って見るので気持ちが違う。
・漫画で最初に読んだときは、途中で戦線離脱して無惨にいびられてかっこ悪い奴だなあとしか思っていなかったけど。
・良い人って意味じゃないですよ。でも、なんかその辺が鬼滅の面白みのひとつでもあるなあと思います。
・みんな泣いていて、この映画は煉獄さんのためにある映画だと思った。
・炭治郎含めて若者3人は、どんどん強くなっているけど、強くなってもその度に高い壁ができて、自分の小ささを再確認する。そしてまたその壁を越えるために頑張る。
・少年漫画っぽいけど、教わるところはたくさんあります。
・続きはまたテレビでやるのかなあ。やってほしいなあ。このクオリティは維持してほしい。
・エンディングも煉獄さん。涙腺注意ですよ。兄貴は最後(最期)まで格好良かった。

 

怒涛の勢いの興行収入も頷けます。

映像は綺麗だし、描き方も上手い。音楽も良い。普通に二度三度見ても楽しめると思う。

 

一方で、いきなり劇場版から入ると、わけがわからないと思う。

ぜひ劇場版を見る前に、これまでのアニメを(原作の漫画でもいい)振り返っておいたほうがいいです。

原作もそうだけど、アニメも無駄がなく、ストーリーに乗っ取って進んでいるから。

これは劇場版だけど、テレビアニメ版の続きで、劇場オリジナル設定とか皆無です。コナンやワンピースの劇場版とはわけが違う。(非難ではなく、純粋に意味が違う)

 

 

 「鬼滅の刃」に見る面白み

ついでなので、アニメ全26話&原作22巻分見て感じていた私的「鬼滅の刃」の面白さを語っておこうと思います。

 

※劇場版だけでなく、テレビアニメ、原作既刊にも触れる内容です。ご注意ください。

 

このお話の面白みってどこだろうと思ったとき、まあ色々あるわけですが、わたしは「有限性」を考えました。

 

まず、原作の漫画は完結されましたよね。(最終巻は12月発売だそうです!)

これだけ人気のなかで、引き延ばしがなく完結するってすごいことです。

 

というか、わたしが言うまでもないことだけど、これ延ばそうと思えばいくらでも延ばせるよ。

上弦下弦に行く前に、もっといろんな鬼と戦わせるとか。

登場人物も多彩で、掘り下げればどんどん拡げられる要素がある。

にも関わらず、原作漫画は「えっ、もうそんな強い鬼と戦うの?」とびっくりするくらいの早さで展開が進むわけです。

もっと主人公たちがいろんな鬼と戦ってね、いろんなドラマがあってね、ちょっとずつ強くなってね、そんな悠長なことやってない。そこがすごい。

ものごとはある程度有限の縛りがあるけれど、それでもそれなりに拡げることもできるのです。

それは、時には出版社側の事情だったり、作者側の事情だったり、いろいろあるわけですが。

そして、そうやって風呂敷を拡げすぎた結果、収集がつかなくなる作品も少なからずあるのですが。(この作品完結するんだろうかという作品はわたしが知っているだけでもいくつかある)

 

この作品はそれをやってない。そこはすごい。

そして、それは、作品のなかでも通底しているなあと思います。

 

 

この作品に描かれているのは、大雑把に言うと鬼と人間の戦いです。

鬼は首を落とされるか日の光に浴びないと死なない。

一方、鬼と立ち向かう鬼殺隊は、常人離れしている人もおられますが、基本的に人間です。

怪我もするし、命も落とす。強くなっても、人間の枠は(一応)はみ出ない。

 

猗窩座が言うように、鬼になれば寿命やいろんな人間としての有限のデメリットを克服できます。もっと強くなれるかもしれません。

でも、その命の限りがあるからこそ、それが自分たち人間の強さだと煉獄さんも、お館様言っている。

数珠のようにつないできた人々の思い、人々の命の重みを、彼らは決して軽んじていない。

 

炭治郎は、なんでもできるスーパー主人公なわけではなく、強くなるためにものすごい鍛錬、努力を重ねます。

それでも、こんだけやっても、まだ全然。やればやるほどさらに上が出てくる。

努力を重ねても、柱の人たちほど強くなるかはわからないけど、それでもその時々で自分たちの持てる力を振り絞って戦っています。

 

柱の人たちも、そういうことを積み重ねて強くなったのでしょう。

 

そして、柱の人たちも、多くの人は何か(大切な誰か)を失って鬼殺隊に入っている。

みんな「悪を滅ぼそうぜい」と悪と戦う正義のヒーローじゃないんですよね。

 

そこには、「もうこれ以上鬼によって大切な人を失う人が増えないように」と願う気持ちが込められています。

大切な人を奪われた悲しみ、絶望を誰よりも知っているから。(蜜璃さんみたいなタイプはめずらしい)

 

そこには、「人の命は、一度奪われたら二度とかえっては来ない」という命の有限性が前提にあるからです。

だからこそ、命の有限性を否定した無惨は、ラスボスとして際立っているんですが。

(鬼の日の光という弱点の有限性については、今回は省略。でも、無残は常にそこを拡げようともがき続けて1000年だったように思います)

 

有限性から見えてくること

(ここからはちょっと個人的なお話も含まれます)

有限であることーー制限があってできることは限られている。一見狭苦しくネガティヴにも思えます。

でも、限られているからこそ、その一瞬が際立ってくる。有限だからこそ、かけがえのない大切なものだと気づく。

そんな一見当たり前のような前提が、この作品の面白みには含まれているように思いました。

 

わたしは、昔は未来は無限大に拡がっていると思っていたし、なんでもできる、なんでもやりたいと思っていました。

現実にはそんなことはないわけで、だんだん年齢が進むにつれて、自分はむしろできないことのほうが多いなと気づくのですが(そりゃそうだ)

 

それと似て、昔は大事なことは余すところなく取り上げたいし、選べなかった。

無尽蔵になんでも拡げようとするところがありました。

自分ができる範囲なんて考えてもいなかった。

 

やっていればそのうち全部できるでしょうくらいの軽い気持ちと言いますか。それより取りこぼしがあったほうが大変! という意識だった。

 

最近、それが変わってきました。

わたしひとりができることは限られているし、全部を拾うのは無理。

むしろ欲張って手を広げすぎた後の結果のほうが恐ろしい。

 

それよりは、自分のできる範囲を考えて、その中で何を選んでいくか、何を研ぎ澄ませていくかを考えるようになった。

 

もちろん、有限がどこまでかはわからない。

限界というのは、反証として突破していくものでもある。

 

「もうこれ以上無理」と思うところを突き抜けていくことだってある。(炭治郎たちが、いろんな鬼と戦ってその度に強くなるようにね)

 

でも、うーん、だからと言ってそれと「あれもこれも」と欲張るのは違うんですよね。

まず有限のなかで、もっとも精度の上がることをやっていこうと思うようになりました。

そんな格好いい話ではないんですが。

 

 

最後に鬼滅に戻っていくと

杏寿郎のお母さんが、「強く生まれた者の役目」を息子に説明したように、弟の千寿郎には兄は母と同じようには言わない。柱になることを目指せとは言わない。

お館様は刀を握らないけど、お館様にしかできない役割をしている。

蝶屋敷にいるアオイちゃんみたいに隊士になっても後方支援に回る役割もある。

 

みんなが同じことを目指せなくても良いということも描いている。

そういうのも有限性のポジティヴな側面だなと思うのです。

 

 

結び

「鬼滅の刃」はとっても面白い作品ですが、きっと10代、20代の自分が見たら、そういう視点(今回取り上げた有限性)はなかっただろうなあと思います。

それはそれでいいんだと思います。

みんながそれぞれの視点で、それぞれの面白みを楽しめることが大事。ワクワクは生きる力になります。

 

もしこれを読んだ人が「そんな視点もあるんだ」と思えたら嬉しいです。

ここまでお読みくださいまして、ありがとうございました。

 

また別の角度から、気が向いたら考察するかもしれません。またー

 

関連情報

▽劇場版公式ホームページ

 

 

 

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