本の読み方についての考察 「ねむり」村上春樹

小説
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ねむり 村上春樹著 イラストレーション カット・メンシック 新潮社

 

先月「TVピープル」を読んだときに、巻末にこのもとになる「眠り」が収録されていて、せっかくだからヴァージョンアップした「ねむり」も久しぶりに読んでみよう(再読です)と思いました。

今回は、「ねむり(眠り)」について感想を書こうかと思っていたんだけれど、両者を比べてみたときに、自分の本の読み方について感じたことがあったので、それについて取り上げることにします。

 

「ねむり」はめずらしく、巻末に春樹さんのあとがきがおさめられています。

「内容を大きく書き直すのではなく、文章的に「ヴァージョンアップ」してみたいと思ったのだ。短編小説に関しては僕はよくそういうことをする。(中略)それは文章家としての自分自身の洗い直し作業でもある」(ねむり P93 あとがき)

 

なんとなく、その気持ちはわかります。わたしは小説は書かないけれど、文章って見直すといくらでも書き直す余地が出てくるものです。推敲とはまた違うのかもしれませんね。

ちょうど「TVピープル」も手元に置いて、文章を見比べてみました。確かに内容は変わりがないけれど、文章はところどころ手を入れられています。全部比べたわけではないけれど、ヴァージョンアップ版のほうが幾分すっきりした印象がある。

 

しかし、なんというのでしょうか、わたしはあんまりその違いに大きな注目がいかなかったんですね。

たぶんなんにも言われずに「眠り」と「ねむり」がニュートラルな状態で置かれていたら、その違いには気がつかないんじゃないかと思う。

 

これはわたしだけか、人による傾向なのか(たぶん人による傾向かもしれない)、わたしは往々にして、本を読むとき、文章そのものにはしっかりと目がいっていないと思います。

つまり、ざざーっと読んで、大枠を掴むのです。細部にまでしっかりと目を凝らしながら読むよりも、感覚的に読んじゃうと言ったらいいのだろうか。「ざっとみてこんな感じ」をまずは掴み取ろうとする傾向があるなと思いました。

だから最近読んだ「真説孫子」も「亡命オーケストラの真実 近衛秀麿」も、実は全部理解できているわけではないのです。ゆえに、「また再読したい」と強く思うのは、掴みきれていない部分があるから。それは知識不足もあるし、一回でできるだけのことを吸収してしまおうという根気が足りないのもあるかもしれません。

これはどうも本だけに限らず、漫画や映画でもあるみたいで、今更ながらに「ここの設定はこういう意味だったのか」とだいぶ後になって気がつくことがあります。

悪く言えば受け取り方が大雑把なんだろう。ユングのタイプ論で言うところの「思考劣勢型」だと思います。

例えば編集者とか、絶対向かないですね。わたし自身は人の文章を見るのは苦手です。読みやすい文章は「美しいな」と思うし、そうでない文章は「気持ち悪いな」と思うのですが、どの辺が?と聞かれると「なんとなく」としか言いようがない。

わたし自身の文章はどうか?

個人的には、冗長的であると認識しています。読みやすい文章を書きたいのだけれど、なかなか。

 

 

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