火と向き合う「炉辺の風おと」梨木香歩

小説以外

梨木香歩さんが、毎日新聞の日曜くらぶに綴られたエッセイが1冊の本になりました。

主に八ヶ岳に購入された山荘での日常が綴られていますが、ご家族のこと、また終盤はコロナ禍についても触れられています。

 

ちょうど寒くなってコロナの感染者数が増加してきて、世間(わたしの周りも)が殺伐としはじめたころだったので(その前の、どこか浮き足立ったような日々もなんとなく居心地が良くなかったけれど)、読んでいると頭の奥がしんと静かになり、癒される感覚がしました。

 

不思議なんだけど、あんまりスマホを眺めているときはそういう気分にならないです。

情報の量も質も悪いのか、返ってストレスを溜めてしんどくなる。でも見てしまう。(ある意味スマホ中毒……自覚しています)

 

 

火と生活する

梨木さんの、炉辺での火との、鳥たちとの、植物たちとの、日々の対話を一緒に体感しているような心地になりました。

特に今回は「火」がテーマであったように思う。

 

初めて、火は生きもののような存在なのかもしれないと感じました。

 

例えば、陶芸をする人にとって、火とどう取り組むかは作品がどう完成するかに影響する。火と対話する人たち。火の釜と人工的なオーブンでは作品は全然違うものになる。

そういうことを、知識では知っていたのだけれど、リアリティが全然足りなかった。

 

北欧の人たちが、暗くて長い冬を、ろうそくの火を好むように

火は、非人工的な存在。どこか、人々に電気やガスとは違ったものを与えるんですね。

 

良い面ばかりではないと思います。

火は、それこそ人類が進化していく過程で欠かせなかったもの。

人類は火を怖がらなかった初めての動物。火を操ることを覚えることで発展していったとも言われます。

 

エネルギーのあるもの。時に破壊するもの。灰にするもの。

一方でこころを穏やかにするもの。YouTubeでは、焚き火の動画が人気だそうですよ。

ソロキャンプの醍醐味のひとつは、「焚き火」とテレビで言っている方がいました。

 

都会っ子のわたしは、日常的にはろうそくの火くらいしかナマの「火」に接することがありません。

それはものすごく小さな火のかたちで、梨木さんの体験されている火とは全然違う。

 

でも火がこんなにも生きもののような存在だということは、なんというか、ちょっとこころの付箋に留めて忘れたくないなあと思いました。

大事なことを教わったような感覚です。

 

時間の流れがゆっくりになる

「まるでネジで巻いたゼンマイのようにひとしきり活動した後は、再びネジを巻く必要があるのではないか。よくわからないが、生きものは結局、そのような仕組みになっているのかもしれない。」(P186 時間が止まり)

 

これは、梨木さんが山荘でリスを観察しているときに出会ったリスから。ものすごい早さで動き回るリスが、何か起こったかのように固まることがあったそうです。

 

ちなみに、わたしは人間的な構造に欠陥があるのか、日常的にそういうふうに「ネジを巻く必要がある」状態になります。しょっちゅうです。

最近はそれが顕著になってきた。

 

前から感じていたのだけれど、どうもわたしのペースと周りのペースが違いすぎる(ような気がする)

昔のわたしは、なんとか周りのペースに合わせようと必死でした。でも、ゼンマイが短いからすぐに動けなくなってしまう。動けない自分を責めるんだけど、責めたところで動けるものではなく。(むしろパフォーマンスは下がる。悪循環)

 

いまは、もう諦めモードというか、「そんなもんだ」と思いつつあります。

むしろゆっくりならゆっくりなりに、日常を味わえるようになりたいと思うようになってきた。

 

だから、梨木さんの見ている世界はとても憧れます。

しかし、前に梨木さんのエッセイの感想でも書いたのだけれど、都会育ちの自分は自然との接し方も非日常的というか、そういうふうには味わえない。残念ながら。

環境を変えることの効用もあるけれど、一方で場所ではないのだろうと思う。

自分が自分の住む世界で、どんなふうに日常を過ごすか。

 

最近気をつけるようになったこと。

 

例えば、電車を待つほんの数分。(便のいいところなので、せいぜい2~3分です)

いつもならそのちょっとした時間にスマホを開いてSNSやニュースをチェックしていました。

 

駅のホームで待っていると、そうやってスマホを眺めている人がたくさん、たくさんいるものです。わたしもそのひとりだった。

 

そのほんの数分、わたしはスマホも本も開かないで、ぼんやりとすることにしました。

 

 

信号の待ち時間。うんと急いだら間に合ったかもしれないけれど(なにせわたしの住んでいる地域性はせっかちさんなのです。青点滅は渡るものという文化性)、それを減速して、信号待ちの数分、ぼんやりとして過ごす。

デジタルデトックスはまだあまり奏功していないのだけれど(もうちょっと実践したいなとは思っている)、そうやって「ぼんやり空白の時間」を持つことを意識的につくる。

 

まだ、ほんの小さな試みですが、じわりじわりと効いているような気がします。

 

コロナ禍のなかで、考えること

『「一人できげんよくして」いられる才能(中略)これは人間の、いや生物の、なんというか存在のたしなみともいえる特技ではないか。だから、「引きこもっている」皆さんは、この才能を鍛錬するのに最も適した状況にあると思う。瞬間瞬間、自分自身を幸せにする。少し、周りを片付けたりして、自分を心地よくさせる。結局人生の究極の目的は、そういうことに尽きると思うのです。』(P220 少しずつ、育てる)

 

わたしは、コロナ第一波のときに、見事に(心的に)引きこもれなかった人です。

こもることは、ある意味でとてもむずかしく、奥深いことでもあります。

 

別にそこでクリエイティヴなものが醸造されるとかそんな崇高なことは考えなくていいけど(すみません、考えていました)

こもって自分で自分を居心地よくさせることって、ある意味では才能というかむしろ「たしなみ」という梨木さんの言葉がしっくりくる。

 

「必要かそうでないことか、自分で考える癖をつける。笑うことを大切にする。社会が萎縮しないために。これは私たちにできる静かな戦いです。この国の主人公、ならぬ主権はまだ国民にあるはず。敵視するべきは大きな渦。そのスピードに巻き込まれないこと。ウイルス感染対策は冷静に、でも緊張しないで複眼的に、ユーモア、ユーモア、と自分に唱えている。過剰な杞憂と、あとで笑えるように。」(P258 遠い山脈)

 

静かに、でも骨太に、つまりしたたかに、コロナ禍の真っ最中に梨木さんから勇気をいただいたような感覚です。

 

コロナ禍は、いろんなものを炙り出しました。

日本人の良いところもそうでないところも白日のもとに晒された。

 

令和の時代になっても、人そのものは、そんなに大きく変わっていないんだろうなという感覚。

テクノロジーが進歩するほどに、人は早くダイナミックには変われないのです。

 

でもそのことを嘆くよりも、自分がどういう人で在りたいかを洗練させていくことのほうがずっとずっと有意義であると思いました。

人を変えるよりも、自分を変えるほうがたやすい。

 

それは、たぶんわたしのなかの静かな戦いでもあるのです。

 

結び

梨木さんの本は、どこか香辛料のようなものと、山奥の隠者のようなものが組み合わさったような感覚があります。

そのうち他の本も読んでみたいなあと思います。

 

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