「希望の一滴 中村哲、アフガン最期の言葉」


希望の一滴 中村哲、アフガン最期の言葉

 

前回紹介した本は2013年に、まだ中村先生がご存命のころに出版された本でした。

 

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本書は、西日本新聞に寄稿された原稿やインタビュー記事、ペシャワール会報などをもとに編集され、中村先生が亡くなられた1年後の昨年(2020年)の12月に出版されました。

 

前回の本では、わたしにとっては入門編とも言えるもので、中村先生のPMS参加までの経緯なども含めて知ることができて、この順序で読んで良かったかなと思います。

まだまだ自分のなかに落とし込めるには時間がかかりそうだし、どうしても言葉にすると安っぽいものになってしまってお恥ずかしいのですが、もう少し、お付き合いいただけると嬉しいです。

 

感想

写真もカラーでたくさん掲載されていて、現地の様子が文章から、写真から、伝わってきます。

中村先生の言葉は、現地での体験によって地に足ついた言葉で、一言ひとことに重みがあります。

 

アフガニスタンでの文化や民族性についても触れられており、読んでいると「ああなるほど」とストンと入ってきます。

同時にニュースで伝えられているアフガニスタンの状況と少しばかり乖離しそうになります。

 

どちらが真実なのだろうと頭がぐるぐるしてきます。

「どちらが正しい」ではなくて、物事を眺める角度の違いなのだろうと思います。

 

アフガニスタンには私たちが想像するような「国家」がない。農村は割拠性が著しく、国家管理は隅々まで行き届かない。険しい渓谷に張り付く村落は荒波にもまれるフジツボの群れに似て、それぞれの世界をつくる。 

(P150 第三部 農村復興への道のり)

 

欧米式の国の在り方が正しいとも必ずしも言えなくて、でも水や自給される食糧がもたらす恵みは、そういった文化や民族の違いを通り越していく。

 

「平和」とは大地の上に築かれるもので、自然と人間のあり方が大きな意味を持つような気がしてならない。敵は自分たちの中にある。

(P92 第三部 農村復興への道のり)

 

かつて文明が栄えて没落していくときに、自然環境は大きく影響を与えたという話があります。

過去の文明は大きな川のそばで必ず起こっているし、イースター島では森林を伐採しすぎて謎の石像だけが残された。

 


文明崩壊 ジャレド・ダイアモンド

 

平和もまた、自然とは切っても切れない関係なのだろうと教えられました。

いや、究極的には。生きている限り、それは切り離せないものなのですね。

 

昨今の先進国の環境保護を推進する動きは、これまで蔑ろにしてきたものへやっと目を向けはじめたとも言えるかもしれません。

 

市場で実物取引がわずかになったように、現代は言葉の洪水の時代で、実が失われていく時代だ。自分の経験で確認しない知識は偽モノになりやすいということだ。

(P184 第四部 水のよもやま話)

 

身に覚えがありそうで恥ずかしいです。

 

わたし自身は、自然が豊かとはとても言えない地域の出身です。

いわゆる開発地のベッドタウン。ずっとそこに住んでいるから、それが当たり前で育ってきた。

 

だから木は好きだけれど、それは身近にあるものとは言えない距離感なのも自覚しています。

虫が恐ろしく苦手だし、濃密なご近所の人間関係は体験したことがないので、田舎暮らしは到底肌に合わないとだいぶ前から思っています。(そもそもしたいと思ったことがない)

 

かといってバリバリの都会が好きかというと、それは惹かれない。

最先端のものに溢れている大都市にも、行きたいとも住みたいとも思わない。

 

だからどちらかというと自然に惹かれるのだけれど、そこまでお近づきになれるほどの覚悟もなく、中途半端な立ち位置です。いつもこういうときに肩身の狭い思いをします。

上の文章を読んでいるときも、そういった肩身の狭さは自分のなかを通り抜けていった。

 

わたしは本を読むのが好きなほうだけれど、現地に触れずに得ている知識は、所詮は机上の空論、偽物じゃないかって後ろめたくなる。

しかし、わたしはそれ以外に知る方法がない。まず知ろうと思ったときに、手っ取り早くできるのがその方法なので、これを奪われると、ますます何もできなくなる。

 

というわけでいろんな矛盾や葛藤を抱えながら、今日もわたしは本を読んで少しばかりの知識を蓄え、拙い頭で自分にはなにができるだろうと考えるのです。

 

英雄にならなくとも

ふと、この感想を書きながら、先日見たドラマ「青天を衝け」で主人公の渋沢栄一が語ったことが思い出されました。

 

第26回「篤太夫、再会する」(9月12日放送)のワンシーンです。

 

ものすごく久しぶりに故郷へ帰った栄一は、故郷の人たちから見れば凱旋です。

一介の百姓だった若者が、武士となり将軍の弟に付いて異国にまで行ってきたのです。

でも、従兄の惇忠に久しぶりに再会したとき、彼はふと本音をもらします。

 

「ここで藍をつくり、蚕を育て、百姓の日々の暮らしをすることこそが大事だったんだ。自分はやっとそのことに気づいた」と。(台詞はうろ覚えなのでご容赦を)

 

これは、家族にも愛する奥さんにも、誰にも決して言えないことです。

現実的に、じゃあそのまま血洗島に残って百姓に戻るかというと、そうでもありません。

 

でも、これはひとつの本音なんだろうなと思いました。

 

現実の渋沢栄一がそう言ったのかはわかりませんが(ドラマだしね)、わたしはこのシーンがとても印象に残りました。

 

何かを為さねばと考えるのは、それ自体は悪いことではないと思う。

無関心に現状に流されることのほうが、怖いという気がする。

でも、もし自分に何かを変えていく力があれば、その役割を全うすることはとても尊いことだけれど、なかなかそこまでに至らない人が大多数ではないでしょうか。

 

幕末を見ていると、この世の中の激動をどうにかしないとと奮起する若者がよく描かれています。でも、誰かが彼らの生活を支えているのです。名もなき大多数の人たちです。(残念なことに、当時は女性はそちら側にいることがほとんどだった)

 

でも、日常のなかから変えていけることもきっとあるはず。

それがなにか。容易には言えません。

 

結局は表面上は無関心な人たちと変わらないのかもしれない。

でも、やっぱりそう信じたいです。

 

結び

今回も言葉にするととても陳腐になってしまいました。(ちゃんと自覚はあります。ええありますとも)

 

コロナになって、世界が一斉にせーのでストップして、個人でも世界規模でもいろんな変化が起こっています。わかりやすいかたちでも、わかりづらいかたちでも。

 

わたし個人は、否応でも世界規模でいろんなことが比べられるようになって

日本と世界の情勢に目を向けることがコロナ前よりも増えました。

「これってどういうことだろう?」と以前より関心を持って、見つめることが増えた。

 

まだ自分の考えを言葉にするまでには至らないけれど、わたしなりの言葉で自分の考えを紡いでいきたいなと思います。

たぶん、これもそんなことのひとつなのでしょう。

 

拙いですが、ここまでお読みくださいましてありがとうございました。

 

※今回書いたことはわたしの考えであって、たくさんある考え方のひとつです。賛同しなくても反対の気持ちがあっても構いません。これを読んでくださった方が、また自分なりの考えを持ってくださると良いなあと思います。

 

関連情報

ペシャワール会の公式ホームページです。現地での活動情報や寄付についてはこちらから。

▽記事中で紹介したもの

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はじめて読んだときは衝撃でした。「銃・病原菌・鉄」も読みたい。と思いつつまだ読めていない。

めずらしく第一話から欠かさず見ています。

主人公にそこまで同調していないのに見れているのはめずらしい。この時代の人間ドラマを今までと少し違った角度から眺めているのが面白いのです。

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