村上春樹さんが、自分の父親について語る本です。
導入
奥さんとのエピソードはそれなりにあるのだけれど、それに比べるとご両親とのエピソードって極端に少ないといえば少なかった。
ごく平凡な家庭の出身で両親ともに教師だったというのは、どこかで何度か語られてきたと思う。目にしたことが何度かある。
別に小説家だからといって(小説家じゃなくても)、自分のプライベートな部分を語らなくても良いのだけれど
春樹さんがどんな家庭で育って、どんな親子関係が築かれてきたのかは、全然想像がつかなかった。
”平凡”や”普通”という言葉で修飾されるものは、語るべきことがないのかもしれないし、語ることができないのかもしれない。
そういえば、作品のなかでも、親との関係を描いているものは、ほんとうに思い出せないくらい乏しい。(別にそこに作者の家族観が描かれなくても問題はないのだけれど)
そんな春樹さんが、父について語るというのは、とても大きな出来事なのだろうと思います。
父と息子って、また特別なものでもあるしね。
本書を読む上で欠かせない視点
それはもう、読んだ人は絶対にわかりますよね。
「戦争」というキーワードです。
春樹さんのお父さんは、若く前途あふれる時期に戦争の時代を過ごしてきた世代の人です。
だから、春樹さんが自分の父について知ろうとするとき、戦争のことをより詳しく知ることは避けて通れなくなる。
戦争によって人生を左右されてきたし、ご両親が出会って春樹さんが生まれたのも戦争があったから。
そして、戦後生まれの春樹さんは、父のような思いをすることなく、自分の好きなことに邁進する人生を歩んできた。
それはある意味とても幸せで大事なことなんだけど、父子でどうにもしっくりこない軋轢が生まれてもしまった。
作品と現実を混合することは筋違いだけれど、「騎士団長殺し」や「ねじまき鳥クロニクル」を思い出しました。
戦争について考えること
それこそ小学生の頃から戦争について学校でも学んできたし、戦争の話も映画やドキュメンタリーも、どこかしらで見たり聞いたりはずっとしてきました。
でも、やっぱり当事者でない世代からするとリアリティが薄くて、どこか遠くて昔の話という視点もありました。
たぶん、そのリアリティの伴った怖さを想像するみたいなものは、大人になっていろんな物事を知ることによって増してきたと思う。
特に最近は、戦争によって生じる人のこころの動き、影響についていろんなところから情報が飛び込んでくるようになった。
そうすると、他人事みたいに過去の出来事として聞いていた戦争が、いかに怖くて繰り返してはいけないものかということが、骨身にしみて怖く実感してくるのです。
でも、そういうのも実感が薄く遠い昔の出来事と思っていても、小学生の頃から延々と「こんなの聞くの嫌だなあ」と思いながらも教育を通して戦争を教えてもらったことが礎にあるんでしょうね。
小学校の修学旅行で行った広島の原爆ドームは、20年ぶりに訪れても覚えていましたもの。
そう思うと、歴史を学んでいることは大切なんだなあと思います。
今回の春樹さんの本を読んで感じたインスピレーションは、次に別の本に続きます。
その本はこれから読むだけれど、「後編に続く」という感じで今回はこの辺で止めておきます。
結び
今回は戦争のことにわたしはフォーカスしましたが、一方で本書は、「猫」という存在が本書を構成する大切な横糸として登場します。
春樹さんも、本書を書くときにタイトルにもなった「猫を棄てる」エピソードから始めると筆が進んだとあとがきで書かれています。
そういう存在って、妙薬というか。決してポジティヴなものだけではないのだけれど、でも大切な役割なんだなと思います。
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